その先は言わないで

冷たいグラスが額に当たる。 彼が渡す冷えたビールを口に運ぶ。 目を擦りながら、テレビをつける彼の大きな背中が私の視界を塞ぐ。 一口きりで飲むのをやめたビールは 私の熱を吸って、紅潮していく。 私はだんだん、冷めていく。 乱雑に放り出された下着と…

DAWN

むくり、と体を起こすと 世界が死んでいた。 荒涼の大地の至る所に吹き飛ばされた鉄道が整然と突き刺さり、それはまるで、死に果てた大地をこの世に繋ぎ止めるための楔であった。 鉄道の楔の間隙を進む。 僕の友人がいた。 友人は私にこの状況と、人々の様子…

違法建築

不眠に陥り、四十八日目の夜。 ぐしゃぐしゃに変わり果てた日記帳を後ろからめくり余白を探す。 殴り書いた昨日の言葉に、今日の懺悔を綴る。 もう僕を許して欲しい。 もう僕を正して欲しい。 もう僕を抱きしめて欲しい。 もう僕を、許さないで欲しい。 床に…

死ぬまでモラトリアム

時間がない、 着る服がない、 アイディアがない、 シャープペンの芯がない、 余白を埋める言葉がない、 余裕が、ない。 無題の焦燥が針の筵となって背後から迫り来るのを、俺は向き直って、 次第に距離を縮める切っ先をぼんやりと眺めている。 その筵は高く…

師走の眠気

葉は落つ。 踏む土は、降りた霜がさくさくと砕ける音がする。 残酷に吹き散らす重たい風がトタンを揺らし、猛々しい犬が軒先の烏に吠える。 鈍色の空、屎尿で黄ばむ電柱、 撓(たわ)む電線、吸いさしのハイライト、 気の違った老人が街道をのたうち回るように…

アルトサックスとオーデコロン

いつものサ店の、いつもの席に腰掛ける。 吹き抜けの先に、湿潤な空気を掻き回すシーリング・ファンがジョン・コルトレーンのリズムに酔っている。 灰皿の形に窪んだアルミとキリマンジャロが目の前に並べられた。 青黒く、落窪んだ目を擦り、キリマンジャロ…

夜の鳥、もういいかい。

ぴゃあ、ぴゃあ。 母さん、夜の鳥がいるよ。 漏れそうな声を必死に殺して、頭を振る。 見えるよ。夜の鳥。 ぴゃあ、ぴゃあ、ぴゃあ。 ちかちかしている、ガスコンロの天板に引っ付いた蜘蛛の巣が揺れる。 揺れて、揺れる。僕も揺れてるよ、母さん。 ぴゃあ、…

baby blue

繁華街を貫く通りをふらふらと歩いて、僕達は限界を迎えていた。 皆は先に向かいながら、僕はギブアップ寸前だった。 連れが水を差し出して、僕は一心不乱に食らいつく。 彼らに別れを告げて、暗い遊歩道をとぼとぼと歩く。 騒々しい喧騒が向こうに聞こえて…

無題②

嘘をつきました。 赤点のテストを、こっそりゴミ箱に捨てました。 コンビニで、ウエハースチョコを万引きしました。 ずる休みをして、ゲームセンターに行きました。 「期待してる」 そう話してくれた先生の、陰口を言いふらしました。 彼女の頭を撫でました。 …

voice

僕がまだ十四の頃、 嫌々作らされた工作のラジオ。 あの頃は何も分からなかったけど、今の僕は分かり過ぎているよ。 何も見えなくても、何もかも見え透いてしまうのに、未だに理解出来ていない。 グルーガンの先端と、はんだで溶けた鉄と、君の匂い。 引き出…

あべこべ

「今は幸せか?」と聞かれたら 僕は首を縦には振らない。 普遍的な幸せと表現するのは烏滸がましいが、 凡その人達が考えるところの幸せというものは、生憎持ち合わせていない。 その多くの人達は、幸せについてとやかく思案しないからこそ、幸せという錯覚を…

ひとりおぼろげ

酩酊の中、いつの間にか繁華街を抜けていた。 揺れる枯れ枝が、ぱきりと落ちる。 ぼんやりと路地を薄く照らす提灯を提げた店がひとつ、ふらふらと吸い込まれていった。 客はいない、頬杖をつきブラウン管を眺めていた老婆が、せかせかと厨房へ戻り「いらっし…

日記~八月二十日

本日未明、 私が私を殺したあの日から、丁度一年でございます。 その成れの果ては今も東の海岸に横たえられていると聞く。 ツナ缶を、卑しい猫共にくれてやる。 戸締りを確認し、家を出ました。 隣家の婆めが一度見に行ってみなさいとあまりにも執拗いので、…

千潮

日照りの海で、私はあなたに溺れた。 渦の中で藻掻く私を、魚達は嗤っていた。 あなたは私の手を引き、あなたの中から掬ってくれた。 私の中のあなたが質量を持って、それが錘になった。 そんな私を掬った貴方の名前を、今はもう思い出せない。

リィンカーネーション

草花は衣を脱ぎ換え、野山は移ろう。 どれだけの四季が繰り返し、夏は過ぎ、稲が首を擡げようとも 私は病衣のまま床に臥している。 寝台の横にある、キャビネットに置かれた花瓶は空のままだ。 患った母は先立ち、ささやかな友人もいつしか私と顔を合わせる…

君が大人になっても

庭でコロコロと虫が鳴いている。 その鳴き声がどの虫のものかは、僕には皆目見当がつかない。 これはコオロギで、あれはキリギリス。 一体どこで仕入れたのだろう無駄な知識を誇らしげに教えてくれる、君が大好きだった。 君の幼さが、僕の幼さを教えてくれ…

歯車

四方は灰色の壁で囲まれている。 天井の染みは何かの暗喩では無いのかと勘繰るが、その故は誰も知らない。 柱から垂れ下がる緞帳の奥で、何かが蠢いている。 みすぼらしい老夫婦は幾重に重なった仮面の奥で薄ら笑いを浮かべている。 その理由は誰も知らない…

期待外れ

「あ。」 プラットフォームに蝉の死骸が落ちてきた。 夏の、よくある光景だ。 僕は顔を顰めたが、彼女は興味津々に死骸を覗きこんだ。 『蝉ってさ、一週間の命なんだってね』 「あーー、、、」 『一週間腹いっぱい鳴いて、それで死んじゃうんだよね。蝉は幸せだ…

ばったもん

七月の暮れ。 くたくたの革鞄を脇に挟み車窓を覗く。 高架下を流れるあの川も随分、小さくなった。 仕事を辞めた。 押しとどめていた虚脱感がどっと溢れかえり、芯に溜まった溜飲が下がる。 その足で、帰省した。 故郷であるその小さな街は、より小さな町に…

亀と乙姫

黒塗りのセダンが夜の街を転がる。 「次は何処?」 燻る煙を口に含みながら、彼女は聞く。 『××の前にある、〇〇ホテル△△△号室です。』 無機質な彼の返答に辟易したのか、彼女は黙って車窓に息を吐きかけた。 「アンタってさあ、」 『…?』 彼を睨む、彼女の口が…

パッとしない夏

『何?』 「何でもない。」 何時からこんな、ぶっきらぼうになったんだろう。 確かに何でもないが、もうちょっとこう、何かあるだろうに。 「ほら、」 『ん。』 ありがとう、も無いのか?? ちょっと奮発して、期間限定のハーゲンダッツを買ってきてやったのに。…

トム

彼と話す時はいつも、あたたかい気持ちになる。 彼と出会う前の別の人は、とても心地よかったけれど、 その人は、救ってくれなかった。彼は私と同じだったから。 彼は救ってくれる。彼が救いとなってくれる。 あたたかくしてくれる。理解してくれる。 でも、…

呆け

探し物をしているのです。僕は。 裏紙に書き連ねた取り留めもない駄文がある日突然、ふわっと浮かんでどこかに飛んでいってしまった。 どうしたものかなあ、と辺りを見廻していると 燻した煙が漂っているのに気付いて、僕は暖簾をくぐったのです。 まだ陽も…

掠れている。 荒れた皮膚は吹きさらしのまま、布に擦れてひりひりと傷んでいる。 血に濡れたジーンズを脱ぎ捨て、硝煙に塗れたジャケットを水面に浮かべた。 ごとり、と一丁の拳銃が転がり落ちる。弾は入っていない。 少し湿気った紙巻を咥え、何とか火をつ…

進化

萌動する麻の茂みを越えて、野に咲く色とりどりの花や虫を見つけては踏み潰して回った。 かつて生を孕んでいた、萎れた雑草に造花を突き刺して嗤う。 丘を越えて、林道を潜り、辺り一面には透き通る様な鈍色の湖があった。 隠されていたのだろうか。これは自…

あなたへ

僕は、あなたに伝えなければならないことがあります。 本当にごめんなさい。 ブラックコーヒーを口に含み、咥え煙草の煙と混ぜて口で転がす。 毎日が肌寒く感じられて、僕はどうにもならないのです。 あなたが待つこの家に帰って、それはとても暖かいのです…

空色

昼食の後、五限目の美術。 並べられた不揃いな僕達は皆、画用紙を睨む。 それぞれの世界を振り返り、その一部を切り取って は、目の前の真っ白な紙にイメージを写す。 僕は何も浮かばなかった。 ただひたすら、ぼうっと空を目で追う。 僕は、何でもない日常…

リチウム

ウォシュレットの水勢を上げた。 臀(しり)に自生した吹き出物が波打ち、思わず声を上げそうになる。 噯気(おくび)に吐瀉物が混じり口元を手で覆おうが、それももう手遅れである。 空き瓶と吸殻、ドリトスの欠片でこの部屋のフローリングは埋め尽くされている…

午前1時

夜の冷たさが、僕をホットコーヒーへ導く。 淋しさを消し去る街灯の下で、胸ポケットから取り出した煙草に火を付けた。 何の気なく空を見上げていると、随分と"出来上がった"様子のおじさんが、よたよたと歩きそのまま僕の横へ腰掛けた。 「見えるかぁ、坊主…

レディネス・レディ

夜に蝉は鳴かない。 その材質のせいなのか、ジャケットが軋む様に擦れて音を立てている。 深く被ったフードから見える視界は狭く、 自分のでは無い、誰かの影がいくつか私を追い越すのが分かる。 耳に乗せたヘッドフォンから鳴るがなり声が 私と彼等との、境…