その先は言わないで

冷たいグラスが額に当たる。

 

彼が渡す冷えたビールを口に運ぶ。

 

目を擦りながら、テレビをつける彼の大きな背中が私の視界を塞ぐ。

 

一口きりで飲むのをやめたビールは

私の熱を吸って、紅潮していく。

 

私はだんだん、冷めていく。

 

乱雑に放り出された下着とシャツを寄越して、扉を開けて彼は消えた。

 

彼を呼ぶ、必死で呼ぶ。

 

泣き出しそうなのに冷えた私の顔を

 

温かくて優しい彼がそっと撫でる。

 

耳元で囁く彼が、愛おしくて遠い。

 

私が私でなければ、彼は近くに来てくれたのに、

 

私はいつも、私でいることを選んでしまった。

 

飲み差しのアルコールを二、三回

 

口に運んで、三〇五号室を出た。

 

私を包むフェイクファーが、暖かい。

 

DAWN

 

むくり、と体を起こすと

世界が死んでいた。

 

荒涼の大地の至る所に吹き飛ばされた鉄道が整然と突き刺さり、それはまるで、死に果てた大地をこの世に繋ぎ止めるための楔であった。

 

鉄道の楔の間隙を進む。

 

僕の友人がいた。

 

友人は私にこの状況と、人々の様子を端的に説明した。

 

息絶えた人々は楔の鉄道に押し込められ焼却され、

 

残された人々は僅かな"生きた"大地を探し

輪になって慟哭していた。

 

慟哭の中心では儀式が起こり、

儀式は彼らを救い、傷付けた。

 

街に、自然にあった無数の音が消えた為に

人々の悲鳴だけが、この世界にあった。

 

生きた大地に茂る蔦を掻き分けながら、進んだ。

 

僕の故郷があった。

 

故郷は生きていたが、増殖した植物に侵され

形はなくなっていた。

 

声が聞こえた。

 

微かに思い出せる、懐かしくもある声。

 

静かな悲鳴がこだましている。

 

声の主を辿ると、僕の母がいた。

 

痛々しく、窶れ細った母の傍に身を屈めて

手を握った。

 

温度は無かった。

この世界から無くなったのか、僕に無くなったのかは分からない。

 

母の顔を見て、母に答えようとすると

 

激しく優しい眠気が襲いかかり、僕は微睡みに身を委ねた。

 

この世界は刹那の夢か、僕の終わりなのか。

 

またしても分からず終いであった。

 

おやすみ、またあした。

 

 

違法建築

不眠に陥り、四十八日目の夜。

 

ぐしゃぐしゃに変わり果てた日記帳を後ろからめくり余白を探す。

 

殴り書いた昨日の言葉に、今日の懺悔を綴る。

 

もう僕を許して欲しい。

 

もう僕を正して欲しい。

 

もう僕を抱きしめて欲しい。

 

もう僕を、許さないで欲しい。

 

床にずり落ちた毛布を正しベッドに横たわる。

 

がらくたと、生活の残骸に溢れた部屋で、零れ落ちてしまいそうな僕の一つ一つを必死に繋ぎ止めている。

 

これが精一杯なんだ、五指の隙間からさらさらと

砂の様に消えていった僕だったものを捜しているんだ。

 

これ以上風に吹かれて消えないように、流した涙で固めているんだ。

 

僕の城は砂の城

 

失くしたものを補うために、今日も集めて、固めて、壊している。

 

堆積した懺悔の粒が、希望と欺瞞の肉体を捜している。

 

僕は此処で待っている。

 

遠い月を眺めて、待っている。

 

死ぬまでモラトリアム

時間がない、

着る服がない、

アイディアがない、

シャープペンの芯がない、

余白を埋める言葉がない、

余裕が、ない。

 

無題の焦燥が針の筵となって背後から迫り来るのを、俺は向き直って、

次第に距離を縮める切っ先をぼんやりと眺めている。

 

その筵は高く、雲を突き抜けて頂は霞んでいて見えず、寧ろ山である。

 

筵はやがて静止し、高慢ちきな警察官みたいに俺の眼前に立ちはだかる。

 

筵の根元、山のような壁はヌメっていて、何故か有機的だった。目を凝らすと僅かに、脈があるらしかった。

 

そんな気味の悪い筵を眺めどうしたものかと呆けていると筵の遥か先、雲をかき分けるように一人、降りてきた。

 

「なんだ、思ったよりシャキッとしているじゃないか。」

 

誰だお前。

込み上げてきた非難と侮蔑を一旦飲み込み、とりあえず一瞥をくれてやった。

 

知らぬ存ぜぬは通用しないらしいことは、奴の様子を見れば明らかだった。

 

「ここの頂上は何もかも中途半端でさあ、なんか余裕が無いんだよな。お前とは正反対さ。」

 

なるほどよく俺を理解しているみたいだな。

 

ネッシーとクジラのペニスはよく似ているらしい、

 

と下品に顔を紅潮させ息を荒らげた生物教師の顔が脳裏に浮かんだ。

 

こいつは、変態教師によく似ている。

 

ひと月も経たないうちに、その教師は逮捕された。

 

針の筵は、あれから何処にも見当たらない。

 

師走の眠気

 

葉は落つ。

踏む土は、降りた霜がさくさくと砕ける音がする。

 

残酷に吹き散らす重たい風がトタンを揺らし、猛々しい犬が軒先の烏に吠える。

 

鈍色の空、屎尿で黄ばむ電柱、

撓(たわ)む電線、吸いさしのハイライト、

 

気の違った老人が街道をのたうち回るように、小石が跳ねる。

 

計らずも砂利を口に含んだ子供が、べっと吐き出し母らしきものに手を引かれる。

 

電気屋に並んだテレビには見た事のある女優が、

コンマ0.1秒の遅れをとって正列する。

 

冬。

立ち込めるは、死の香り。

アルトサックスとオーデコロン

 

いつものサ店の、いつもの席に腰掛ける。

 

吹き抜けの先に、湿潤な空気を掻き回すシーリング・ファンがジョン・コルトレーンのリズムに酔っている。

 

灰皿の形に窪んだアルミとキリマンジャロが目の前に並べられた。

 

青黒く、落窪んだ目を擦り、キリマンジャロをなめる。

 

踵を返したウェイターから、柑橘のコロンの残り香がふわりと鼻を抜けた。

 

掠れた背表紙を指でなぞり、一冊分の空洞にそれを戻すのは、心の穴を埋めるみたいだった。

 

壁に掛けられた抽象画をぼんやりと眺める。

 

楽をしたかったわけじゃない、逃げたかったわけでもない。

傷付けたのも、傷付けられたのも私だった。

 

ビニールを擦る針の音が、ずしりと感情に乗っかる。

 

私は無かったことに出来ないのに、

それでも、始まりのサックス・ソロは幕引のピアノに続いた。とても冷たくて無愛想だ。

 

カランカランと音を弾ませながら、扉が開く。

 

マスターは遠慮がちに会釈をし、空いているカウンターに通す。

 

軒先に咲く、

梔子の香りが辺りを包んだ。

 

 

 

夜の鳥、もういいかい。

 

ぴゃあ、ぴゃあ。

 

母さん、夜の鳥がいるよ。

 

漏れそうな声を必死に殺して、頭を振る。

 

見えるよ。夜の鳥。

 

ぴゃあ、ぴゃあ、ぴゃあ。

 

ちかちかしている、ガスコンロの天板に引っ付いた蜘蛛の巣が揺れる。

 

揺れて、揺れる。僕も揺れてるよ、母さん。

 

ぴゃあ、ぴゃあ、ぴゃあ、ぴゃあ、

 

窓から見える、柳に隠れた電柱に

いる。

 

夜の鳥は、首を280度に傾けて、

 

「なくし物は何ですか。生き物ですか。何なんですか。」

 

話しかけてくる。

 

母さん、母さん。

 

ぴゃあ。

 

青白い、病弱な母さん。

 

揺れている。

 

馬鹿げた冗談はおよし、といつも怒鳴られる。

ぴしゃりと叩かれる。

 

叩かないでおくれ。母さん、夜の鳥だよ。

 

「ぴゃあ。」

 

夜の鳥は、鳴かなくなった。

 

窓からずうっと眺めている。

 

母さんにも、見えていたのかな。

 

とんとんとん、とんとんとん。

 

人参を、刻む音。

 

骨が痛いよ、母さん。軋む音。

 

誕生日に貰った、生きもの図鑑を母さんと読んでいる。

 

母さんは夜の鳥を、見つめていた。