願いの音

とある街の片隅に建つ憩いの場には、グランドピアノが置かれていた。

 

学生だった僕は、そこへ足繁く通った。

 

そこでは毎日、ある少女が

決まってクラシックを演奏していた。

 

名前も知らない少女はいつも代わり映えのしない白衣を着ていて、

 

儚げな横顔を、テラスから差し込む薄明かりに照らされながら音色を奏でていたのだ。

 

 

僕はその少女に、少女の音色に惹かれていた。

 

 

虚弱そうで、今にも月の光に吸い込まれて消えてしまいそうなその少女は

そんな自身を表すかのように繊細で、美しい音色を聴かせてくれた。

 

僕達は気付いていた。

そこに二人がいる事を知っていたのだ。

 

視線を合わす事も、言葉を交わす事も無かったが

確かに僕とその少女は、通じ合っていた。

 

明くる日も明くる日も、彼女は音色を奏で続けていたが、

 

まるで美しき旋律の代償を支払うかのように

みるみるうちにか弱く、弱々しくなっていった。

 

少女の旋律は次第に弱くて、暗くて、哀しい音へと変化して言った。

 

僕は、気付いていた。

 

少女の置かれている状況も、その顛末がどのようなものなのかも、

 

もう、永くは無いということにも。

 

しかし、少女は弾き続けた。

 

彼女もまた、僕が気付いている事に、気付いていたのかもしれない。

 

辛かった。

 

日に日に窶れてゆく少女の音に、ただただ耳を傾ける事しか出来ない自分の無力さが、許せなかった。

 

ある日の夜、月が空に昇りきる頃。

 

少女はそこにいた。

 

閉館まであと僅かという時間に、僕はたまたま

通りかかったのだ。

 

僕は走る。

 

今そこに、その時に、

彼女がそこにいるという事がどんな意味を持つのか、解ったのだ。

 

広間へ駆け込み、僕は抑える事が出来ず

彼女へ叫んだ。

 

 

「お願いだから、

君の一番美しい音を聴かせてくれ────────。」

 

 

少女は何も返さず、鍵盤のほうへ向き直って

小さく、細い手を動かし始めた。

 

それはとある日、何の気なく此処へ訪れた僕が

 

 

初めて耳にした彼女の音だった。

 

 

全部、憶えていたのだ。

僕の思い過ごしなんかじゃない、あの日から僕達は、確かに繋がっていたんだ。

 

響く和音に、揺れる旋律。

 

それは僕は今迄耳にした中でも

最も優しい『愛の夢』だった。

 

湧き上がる感情は凝縮され、

涙に変わり僕の頬を伝った。

 

第三番を弾き終えた頃、

彼女は振り向いてこう言った。

 

『お願いがあるの。』

 

 

 

『ずっと、憶えていてね。』

 

 

 

とある街の、憩いの場。

陽だまりに浮かぶグランドピアノ。

 

その屋根には時折、夜想曲のスコアと共に

紫苑のブーケが添えられている。

 

 

それはまるで、

 

嘗て紡がれた音色を、いつまでもいつまでも

追憶するかのように。